後醍醐帝壱岐より帰る

後醍醐天皇は、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子。正応元年11月2日(1288年11月26日)に誕生し、乾元元年(1302年)に親王宣下。嘉元2年(1304年)に大宰帥となり、帥宮(そちのみや)といわれた。徳治3年(1308年)に持明院統の花園天皇の皇太子に立ち、文保2年(1318年)に同天皇からの譲位によって31歳という壮齢にて即位する。

正中元年(1324年)、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画が発覚して六波羅探題が後醍醐の側近日野資朝らを処分する正中の変が起こる。天皇はその後も密かに倒幕を志し、醍醐寺の文観や法勝寺の円観などの僧を近習に近づけ、元徳2年(1329年)には中宮の御産祈祷と称して密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺など南都の寺社に赴いて寺社勢力と接近する。しかし、この頃から大覚寺統を支持する公家の間で天皇派と邦良親王派への分裂が見られ始め、後者を持明院統側や幕府が支持したために天皇側は窮地に立たされる。そして邦良親王が病死した後には退位への圧力が一層強まる事となった。元弘元年(1331年)、再度の倒幕計画が側近吉田定房の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽動座を決断、三種の神器を持って御所を脱出した上で挙兵し笠置山に篭城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを元弘の変と呼ぶ。

天皇は隠岐島に流罪となり、幕府は邦良親王の次に予定されていた持明院統の光厳天皇を替わりに即位させる。この時期、後醍醐の皇子護良親王、河内国の楠木正成、播磨国の赤松則村ら反幕勢力が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は名和長年ら名和一族の働きで隠岐島から脱出し、伯耆国船上山で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利尊氏が天皇方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させる。


地車彫刻で見られるのは、壱岐から脱出し舟から降り立ったところ。足が水につからないよう名和長年におぶられた後醍醐帝が遠く壱岐島を望む様子を写した場面である。題材となった大和桜では壱岐島の方を向いていないのだが、銘彫木下舜二郎が手を加えこの場面が定着した。水に関する彫刻を配置することの多い屋根周りによく見られる。



岸和田市上町大屋根枡合左面






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