町内が極端に狭く往年の世帯数は二十戸程度。慢性的な曳き手不足に陥っている中でも、尾崎という祭礼の盛んな地にあり町民の熱意により曳行を続けていた。ところが昭和三十年代に入ると、泉州の秋祭りに対する批判が全国的に広まった。喧嘩祭り、血祭りと悪評をうけ、十月祭礼各地区では曳行を自粛する地区が続出。相生町もより一層の祭礼参加人数の減少により、ついには曳行を自粛することとなった。やぐらを手放す地区が多い中、相生町はやぐらを町内で保存し、祭礼日には大勢の町民がやぐら部屋に集まり、小屋の扉を開け、他町の曳行を見守った。

昭和六十一年、隣町である下出がやぐらを新調し曳行を再開。同地区の福島町にもやぐら再建の雰囲気が高まる中、我が町も負けてはおれんと町民が奮起。祭礼復帰と新調の想いが町内全てに広まった。

そして平成八年にやぐらの新調が決定。前年の平成七年祭礼二日目深夜、先代のやぐらを化粧付け尾崎各町にお披露目。その様子に尾崎中が盛り上がり、町民は感涙に咽った。同年祭礼後昇魂式。彫刻は町民各自大切に保管されている。予定通り翌年に現在のやぐらを新調。同年から町を挙げて祭礼に復帰した。

竹安建設が腕によりをかけたこの相生やぐらは、形がよく容姿が美しい。良質の尾州檜を選りすぐり製作された本体は色目が良く、木下彫刻が施した木彫細工も見事である。特徴ある屋根形は先代やぐらを踏襲し、太鼓は先代のものを修復して使用。本幕は地元かわい呉服店より京都の村山寅刺繍製作。また装飾には、やぐら提灯と呼ばれる細い駒提灯が飾り付けられる。現在この提灯を使用している地区は、相生町と泉南市信達岡中二町のみである。






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