日本武尊草薙の剣


西征

父の寵妃を奪った兄大碓命に対する父天皇の命令の解釈の行き違いから、小碓命は素手で兄を殺してしまう。そのことで小碓命は父に恐れられ、疎まれて、九州の熊襲建兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者しか与えられなかった小碓命は、まず伊勢へ赴き、伊勢の斎宮をしている叔母倭姫命から女性の衣装を授けられる。このとき彼は、いまだ少年の髪形を結う年頃であった。

九州に入った小碓命は、熊襲建の新室の宴に美少女に変装して忍び込み、宴たけなわの頃を狙ってまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、その武勇を嘆賞し、自らをヤマトヲグナと名乗る小碓命に譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。

その後、倭建命は出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の太刀を偽物と交換した上で、太刀あわせを申し込み殺してしまう。

東征

西方の蛮族の討伐から帰るとすぐに、景行天皇は重ねて東方の蛮族の討伐を命じる。倭建命は、再び叔母倭姫命を訪ね、父天皇は自分に死ねと思っておられるのか、と嘆く。倭姫命はヤマトタケルに伊勢神宮にあった神剣天叢雲剣(草薙剣)と袋とを与え、「危急の時にはこれを開けなさい。」と言う。

倭建命はまず尾張国造家に入り、美夜受媛と婚約をして東国へ赴く。相模の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭ってしまう。そこで叔母から貰った袋を開けたところ、火打石が入っていたので、草薙剣〈天叢雲剣)で草を掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしてしまう。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)という。

相模から上総に渡る際、走水の海〈横須賀市)の神が波を起こして倭建命の船は進退窮まった。そこで、后の弟橘媛が自ら命に替わって入水すると、波は自ずから凪いだ。入水に当たって媛は火攻めに遭った時の夫倭建命の優しさを回想する歌を詠み、幾重もの畳を波の上に引いて海に入るのである。七日後、姫の櫛が対岸に流れ着いたので、御陵を造って、櫛を収めた。

その後、倭建命は東国を平定して、足柄坂〈神奈川・静岡県境)の神を蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺し、そこから東国を望んで「吾妻はや。」〈わが妻は…)と三度嘆いた。そこから東国をアヅマと呼ぶようになったと言う。また甲斐〈山梨県)の酒折宮で連歌の発祥とされる「新治筑波…」の歌を詠み、それに下句を付けた火焚きの老人を東の国造に任じた。その後、科野(しなの=長野県)を経て、倭建命は尾張に入る。

尾張に入った倭建命は、かねてより結婚の約束をしていた美夜受媛と歌を交わし、その際媛が生理中であることを知るが、そのまま結婚してしまう。そして、伊勢の神剣草薙剣〈天叢雲剣)を美夜受媛に預けたまま、伊吹山〈岐阜・滋賀県境)へその神を素手で討ち取ろうと、出立する。

素手で伊吹の神と対決しに行った倭建命の前に、白い大猪が現れる。倭建命はこれを神の使いだと無視をするが、実際は神自身の化身で、大氷雨を降らされ、命は失神してしまう。山を降りた倭建命は、居醒めの清水(岐阜県)で正気をやや取り戻すが、すでに病の身となり、弱った体で大和を目指して、当芸・杖衝坂・尾津・三重村〈岐阜南部〜三重北部)と進んで行く。ここでは地名起源説話を織り交ぜて、死に際の倭建命の心情を映し出す描写が続く。そして、能煩野〈三重県亀山市〉に到った倭建命はついに「倭は国のまほろば…」以下の4首の国偲び歌を詠って亡くなるのである。

倭建命の死の知らせを聞いて、大和から訪れたのは后や御子たちであった。彼らは陵墓を築いてその周りで這い回り、歌を詠った。すると倭建命は八尋白智鳥となって飛んでゆくので、后たちは尚3首の歌を詠いながら、その後を追った。これらの歌は「大御葬歌」〈天皇の葬儀に歌われる歌)となった。

白鳥は伊勢を出て、河内の国志幾に留まり、そこにも陵を造るが、やがてまたその地より天に翔り、行ってしまう。〈☆日本書紀では白鳥の飛行ルートが大和琴弾原→河内古市となっていて、その3箇所に陵墓を作ったとしている。こうして白鳥は天に昇っていってしまう。その後天皇は、日本武尊の御名代として武部をさだめた。


草薙剣


この説話では、駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣で草をなぎ払って難を逃れたことより、この剣が「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになったものとしている。なお、草薙剣はこの後、ミヤズヒメの元、尾張の熱田神宮にて祀られたが、天智7年(668)僧道行によって盗まれ、その後は宮中に留め置かれた。ところが、朱鳥元年(686)に天武天皇の病気が草薙剣とわかり、剣は再度熱田神宮に祭られることになった。熱田神宮には「酔笑人神事」といってこのときの剣の帰還をひそかに喜ぶ神事があり、草薙剣が本来熱田神宮の神器であったことを伺わせる。おそらく、尾張氏の娘を母とする安閑、宣化天皇の関係で、神器化された草薙剣の祭祀を巡って、朝廷と熱田神宮に何らかの軋轢が在り、最終的に熱田神宮での祭祀が決まったために、その合理的な説明として、伊勢神宮からヤマトタケルの手を経て、尾張に剣が置かれることが語られた。


参照日本神話の部屋

引用:フリー百科事典Wikipedia



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