新田義貞稲村ヶ崎投剣の場


新田義貞は元弘元年(1331年)の元弘の変では鎌倉幕府に従い、河内国で挙兵した楠木正成の攻撃に参加している。

元弘三年五月八日、後醍醐天皇の呼びかけに応え、生品明神に一族を集め鎌倉幕府討伐のため挙兵。最初に集まった軍勢はわずか一五〇騎にすぎなかったと伝えられている。新田軍は東山道を西へ進み、上野国守護所を落とし、利根川を越えた時点で足利尊氏の嫡子千寿王(足利義詮)の軍と合流し、千寿王を奉じる。河内源氏後裔の嫡流を称する足利尊氏の嫡男を奉じた新田軍は数万規模に膨れ上がった。

さらに新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指ヶ原(埼玉県所沢市小手指町付近)に達し、桜田定国・金沢貞将率いる幕府軍と衝突する。兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の諸侯の援護を得て新田軍は次第に有利となり、幕府軍は分倍河原(東京都府中市)まで退却する。幕府軍は再び分倍河原に陣を張り、新田軍と決戦を開始する。義貞は援軍に駆け付けた三浦義勝らの兵を合わせて幕府軍を撃破した。

藤沢まで兵を進めた義貞は、軍を極楽寺坂切通し方面と巨副呂坂切通し方面にわけて鎌倉を総攻撃する。極楽寺坂切通しの突破を困難と判断した義貞は、稲村ヶ崎から強行突破し、幕府軍の背後を突いて鎌倉へ乱入。北条高時の一族を北条氏菩提寺の東勝寺で自害させ、挙兵からわずか十五日で鎌倉幕府を滅亡に導いた。

鎌倉攻撃の際に大仏貞直の守る極楽寺切り通しの守りが固く、さらに海岸には北条方の船団が固めていたが、義貞が稲村ヶ崎で黄金造りの太刀を投じ竜神に祈願すると、潮が引いて干潟が現れて強行突破が可能になった。




阪南市波有手小屋根胴幕板

写真提供:だんじり保存会城様







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